ぬのや
ぬのや
Q.造り酒屋さんなのに、なぜ [布屋] という屋号なのですか?
Q.昔、布でも売っていたのですか? 酒造りにつかう布のことですか?
Q.酒造りを始めたのはいつ頃ですか?
Q.現在何代目になりますか?
Q.元文という銘柄の意味は何ですか?
しばしばこの様なご質問、お問い合わせをいただきます。
〜 少し長くなりますが、当家 [布屋] の由来をご説明いたします 〜
《 秦河勝(川勝) 》
の首長で、京都の広隆寺を造立したことでも知られています。
また、猿楽(さるがく)=<能楽>の始祖とも伝わっております。
聖徳太子(厩戸皇子)は寺院建立の際、ひときわ光明を放つ普請材木を見つけ、その
一部を使い観音像・薬師如来像の2体を 百済の仏師に作らせました。
観音像は京の六角堂へ、薬師如来像は河勝に与えられ、 河勝は大和の領地に一堂
を建て この薬師如来像を氏神として祀りました。
後に、河勝の孫 秦河建が 天智天皇(中大兄皇子)の時代に【藤原】姓を給い、『秦』
を改め 藤原河建 と名乗り、代々藤原朝臣として朝廷に仕えたとされています。
のち、桓武天皇の平安京遷都の際、大和の伊東村を引き払い、京の大原へ住まいを移した
事により、河勝子孫は、氏を伊東、姓を藤原とし、伊東左衛門尉藤原勝繁と名乗りました。
《 源平の争乱 》
ますが、この当時 平家方とも親しくしていたため これを断りました。
また 子 伊東左近衛権藤原勝正は音楽(雅楽・舞楽)を学び、その縁にて小松の右中将
平維盛(たいらのこれもり)と親交を深めていました。
そして このことが後に 源義朝の子 源義経 の反感を買うことになるのです。
《 源義経の怒り ・ 都脱出 》
やがて源氏一統の世となり、平家一門は滅亡、都落ちしていきます。
元暦元年(1184年) 勝正は 隠密にて 平維盛をかくまい、大和路への逃亡の手助けを
しました。
ところが、京都の守護として館を構える源義経に、この一連の出来事が密告さてしまっ
たのです。 「亡父義朝が 味方へ招かれし時も、彼の父勝繁は 承知せざりと伝聞く。
今度 勝正が維盛をかくまいし事、重々憎く許し難し。 早速鎌倉へ申達し 首をはねん」
と逆鱗に触れてしまったのです。
知人の知らせにより、義経に命を狙われている事を知った勝正は、文治元年(1185年)
先祖から伝わる薬師如来像を背負い、都の大原から脱出しました。
《 近江惣市(おうみそういち)の 目出度き 白布 》
大原を脱出した勝正は、近江国八幡の神職で音楽の愛弟子でもある卜部常陸(うらべ
ひたち)の館に一時身を寄せていました。(尚、名前を常陸卜部とする説有り)
文治2年(1186年)2月の事、僧の姿に変装して 惣市(*総合市場) に出掛けて辺りの
様子を探っておりました。 {この八幡では毎年2月に惣市が開かれていたそうです}
するとそこへ 20歳位の美しい娘が近づいてきて、「この白布を求め給れ」と声をかけて
きたのです。 勝正は、これまで自分で物を買った事が無い為、 見当がつかないものの、
面白い心地にて 「この値は如何程か」 と尋ねると「あなた様のよき程にして給れ」と娘が
答えました。
そこで、暫く思案した後 「これでよいであろうか」 と金子200疋を渡すと娘はたいそう歓び、
深々と頭を下げ 「有難し」 と礼を言い立ち去って行きました。
館へ戻り、 「一生にはじめて物を買い求めた!」 と白布を見せ、事の次第を話しました。
すると、これを聞いた卜部常陸はとても驚いてこう話し始めました。
「この国の山奥には、まだ天下に知られていない人里があり、この八幡の惣市には、とき
おりその人里から白布を持ってくる事があると言われております。そして、その白布を手に
した者は一生災難を逃れ幸福を得ると噂されておりまして、それはそれは珍しい目出度き
品なのでございます。
人々は 日頃よりその白布を求めようと心がけているのですが、めったに手に入れる事は
できないのです。 今日この白布を手に入れたからには、 御身の運も これからは きっと
開けていくことでございましょう。」 との説明でした。
《 近江から郡上・そして越前へ 》
翌3月下旬、源頼朝が落人に対する詮議を 厳しく命令した という噂を耳にすると『ここに
留まっていては、今後 弟子に迷惑が掛かることになりはしないか』 と考え、また自分の
身の危険も感じはじめていたので、ここで近江を離れる決心をいたしました。
卜部常陸は、引き続き館での逗留を勧めましたが、勝正はこれを断わり、別れを告げ、
近江国八幡をあとにしました。途中、関ケ原を抜け、北美濃の郡上までやって来ましたが
『やがてこの地も戦乱が及ぶであろう』という薬師如来の夢のお告げに従い、更に西方の
峠(油坂峠)を越え、未開の地を安住の場所としました。
そして『近江惣市』で手に入れた目出度き『白布』に因み、その地を【市布】≪いちぬの≫
と名付けたのです。◎現在の 福井県大野市東市布(旧大野郡和泉村東市布=穴馬郷市布村)
また この時、素性を隠すため 脱出した京都、大原の(原)と 藤原姓の(原)から、姓を
【原】 とし、家紋は 「下がり藤」から「木瓜」(もっこう)へと改めました。
《 造り酒屋 布屋創業 》
郡上にて酒造業を始めたのは江戸時代の元文5年(1740年)、徳川八代将軍 吉宗公
の時代で、当時の当主 原左近衛門正繁は『近江惣市』での目出度き『白布』に
因み、屋号を【布屋】《ぬのや》 と命名しました。
現在でも 創業時に建てられた蔵を利用し、仕込みを行っています。
銘柄は 創業時の年号から 【元文】(げんぶん) を使用しています。
現在の当主は、義経に追われ 京の大原を下った 伊東左近衛権藤原勝正より
39代目、 造り酒屋 布屋創業からは 12代目となります。
福井大学所蔵 市布村氏神由来書より抜粋 一部解説を加筆
〜 最後までお読み下さり有難うございました 〜
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